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映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」(監督:フレデリック・ワイズマン、原題:Ex Libris – The New York Public Library)のヒットに伴い、2003年に岩波新書から出版された『未来をつくる図書館』が再評価されているという。
この本の著者で在米ジャーナリストの菅谷明子氏と、「マガジン航」編集発行人の仲俣暁生氏によるトークイベント「ニューヨーク公共図書館から考える、パブリックな情報社会とは」が、神保町ブックセンターで8月21日に行われた。本稿では、このイベントと映画、あるいは本などで見聞きしたことについて論考する。
パブリックの日本語訳は?
日本語で「公共」と言うと、国家や政府などから与えられるものというイメージがある。私の手元にある岩波国語辞典第七版で「公(おおやけ)」を引くと、1番目に朝廷、政府、役所、国家などといった意味が出てくるのは、ある意味象徴的だ。共有、公知といった概念は2番目、3番目に続く。
イベントでも、菅谷氏がこの本を書くときに「The New York Public Library をどう表記するか悩んだ」と語っていた。当時、どう翻訳されているかを調べてみたところ、公立、市立、国立などと表記されている場合もあったという。
英語のパブリック(public)は「みんなのため」「だれでも自由にアクセスできる」といった意味になる。図書館の運営を誰が担っているかに着目すると「公立」だが、重要なのは「だれのため」だと考え「公共」と表記するしかない、と決めたそうだ。
いっぽう仲俣氏は、日本語でパブリックにいちばん近い言葉は「公衆」だと考えているそうだ。たとえば「公衆浴場」すなわち銭湯は、民間が経営しているけどだれでも入れる。入ってしまえば、金持ちか貧乏かなど関係なくみんなが裸で、同じ水準で入浴サービスが受けられる。「大衆」とも異なり、自分自身が権利の主体だと思っているような大衆が公衆ではないか、という。
この言葉の定義は、英語のパブリックから派生した「publish」と、日本語の「出版」とでは、完全なイコールでは結べないのと似た問題だ。日本語では、情報を公共化するという事業の意義より、複製のための版を所有している者、というところが重視されている言葉になっている。版権、版木、版元などの派生する言葉も同様だ。
みんなのための公共図書館
さて、映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」で私の印象に最も強く残ったのは、取り組み事例のあいまに何度も会議のシーンが出てくることだ。ニューヨーク公共図書館は、アメリカでも珍しい半官半民の施設で、市からのお金と、寄付によって成り立っている。資金をどう調達するかはここでも悩みの種で、この映画でもファンドレイジング戦略について議論するシーンがある。
ニューヨーク市の希望にそって、市の予算の最大化を図ろうと言う館長。それに対し、持続可能性を考えるべきだと主張するスタッフや、民間の寄付こそ重要だと主張するファンドレイザー。市からのお金は、市の利害に合うようなサービスに使わなければならない。往々にしてそれは「みんなのため」と相反する。そのため、縛られないお金が必要だ、と。市に対しては「ちゃんとやってますよ」というポーズさえとっておけば良い、などという意見もあった。上意下達ではなく、市民のためになにができるか? を真剣に議論をしている様子がうかがえる。
菅谷氏はイベントでこれを「パブリックのために戦ってくれるスタッフがいることの心強さ」と評していた。ホームレスや移民、職がなくて困っている人から、いわゆるアッパーな、アート愛好家やアーティスト、歌手など、幅広くどのレベルに対してもサービスを提供できるよう、頑張ってくれているというのだ。
この映画では他にも、ホームレスの長時間滞在に対する苦情について、スタッフが議論をするシーンもある。ここでは、「図書館はだれにでも開かれた場所であるべきだ」「そうは言ってもどこかで線を引かなければならない」「そもそも我々住民が、ホームレスと距離をとってしまっていないか」などといった意見が交わされていた。
日本ではつい先日、台風19号接近中という緊急時に、台東区の避難所がホームレスの受け入れを拒否する事件があった。そのニュースを見て私は、ニューヨーク公共図書館でのこの議論を思い出した。NHKなどの取材によると、台東区の担当者は「ホームレスの避難を事前に想定していなかった」という(記事)。日本における「公共」とは何なのかを、あらためて考えさせられる。
吟味批評するめんどくさいプロセスが民主主義
また、菅谷氏はイベントで「吟味批評するプロセスはめんどくさいけど、民主主義のプロセス。それを経たからたどり着ける地点がある」とも語っていた。たとえば読書会でも、アメリカでは本は素材でしかないそうだ。読書は極めて個人的な営みだが、それを他人と共有し、吟味批評すると、同じ文章でも解釈や視点が違うことに気づく。その結果、本の価値も膨らむのだという。
日本の教育は座学が中心で、グループ・ディスカッションやディベートがあまり行われていない点が、しばしば問題視されている。議論の経験を積んでいないから、意見を否定されると、人格を否定されたように思えてしまい、人間関係が壊れてしまったりする。是々非々を貫こうとすると、「あいつは空気が読めない」などと揶揄される場合もあり、なかなか難しい。
だからといって、めんどくさいプロセスを省き、トップダウンで物事を進めようとすると、それが「みんなのため」になっていない場合に、猛烈な反発によってかえってめんどくさくなることさえある。最近の日本の政治や行政は、そういった「めんどくさい民主主義のプロセス」をすっ飛ばし、強引に進めていくような動きが多いように、私は感じている。公務員は、公衆への奉仕者だ。しかし、日本ではどうも、首相や首長など「お上」に仕えているという意識が強いように思えてならない。
権力を持っている人は賢い市民を嫌う
また、この映画の中では「情報を持たないものは、情報を持つものに常に支配される」という言葉が出てきた。これを菅谷氏はイベントで、「権力を持っている人は賢い市民を嫌う」と表現した。つまり、権力者からすると、賢い市民はコントロールが難しくなる、というのだ。だからこそ、民主主義には教育が重要だし、「みんなのため」の図書館の役割も重要になってくる。
情報とは、衣食住のような生存のために必要不可欠なものではなく、知っていると得をする、知らないと損をするものだ。この映画の中で、ニューヨーク公共図書館のスタッフが障害を持っている人に、家を借りるとき障害者手帳を出しても大家さんにダメと言われたら、それは人権侵害だから、この団体に助けを求めれば良い、というアドバイスを行っていた。恐らくレファレンス業務の一環だろう。図書館が、賢い市民になるための手助けをしているのだ。
現在は情報過多と言われているが、本当に困っているときに的確な情報を得るには、一定以上のリテラシーが必要となる。グーグル検索だけで調べられることには限度がある。検索結果の上位10件ですら、丹念にチェックしようと思うと苦労する。しかし、本で調べるのは意外と難しいし、時間もかかる。菅谷氏は、著書でもイベントでも、整理分類され検索しやすいデータベースの有用性について強調している。利用料が高額なデータベースでも、図書館でなら無料で利用できるのだ。
知らないことは、判断できない
また、的確な批判や批評をするためには、その意見を支える論拠が必要となる。菅谷氏は「自分が知らないことはクリティーク(批評、評価、検討、判断)できない」と指摘していた。そういう意味でも、情報や知識は民主主義社会の基礎となる。そして、論拠を元にし、どのように意見を表明するかも重要となる。
菅谷氏によると、アメリカでは小学校2~3年の時点で「OREO」という言葉を習うという。作文をするときは、まず自分の意見を書く(Opinion)。その意見にはどのような背景があるのか、理由を述べる(Reason)。説明や例示をする(Explanation or Example)。それらを踏まえて、改めて意見(Opinion)に戻ってくる。このような「型」を早いうちから学ぶのだという。
また、事実と意見の区別については、小学校より前、kindergarten のころから言われ続けるのだそうだ。日本でも報告、連絡、相談の「報連相」がビジネスの基本だとよく言われる。マネージャーは報告を求めているのに、部下が事実ではなく意見を言ってしまう、というのはよくある話だ。状況を知らなければ、判断ができない。まず、なにが起きているのか、事実を的確に伝えること。そしてその上で、自分なりの意見を持つことも重要だ。
すべての情報は取捨選択されている
もう1つ、この観点にも触れておかねばならない。2019年9月30日発売の「ライブラリー・リソース・ガイド」第28号に、ビジネス支援図書館推進協議会 副理事長の豊田恭子氏が「特別寄稿:もうひとつの『ニューヨーク公共図書館』~映画の背景にあるものを読み解く~」という論考を寄せている。
分館のミッド・マンハッタン図書館と科学産業ビジネス図書館(SIBL:通称「シブル」)の建物を売却し、その機能を本館へ統合する計画が2011年に発覚した。計画の是非は大論争となり、結局、白紙撤回された。この映画が撮影されたのはその直後だったはずなのだが、映画の中ではその点について触れられていない、という指摘と、この計画にはどういう背景があったのか? という解説だ。
シブルについては、菅谷氏の『未来をつくる図書館』でも、第1章の冒頭で紹介されている。そのため菅谷氏はこの映画を観て、「ニューヨーク公共図書館のことを知っていると、なんでワイズマン監督はシブルのことを映画に入れなかったんだろう?」「ニューヨークにはこんなに多様な人がいるのに、映画ではなぜここに焦点を当てたのか?」などと感じたという。また、そういう視点が重要だ、とも。
実は、この映画のパンフレットには、ワイズマン監督へのインタビューが載っている。タイトルを Ex Libris(ラテン語で「~の蔵書より」という意味)としたのはなぜか? と問われ、「僕がこのタイトルで一番示唆したかったのは、この映画がNYPL(※注:ニューヨーク公共図書館)で起きていることをすべて網羅しているわけじゃないということだ。(中略)それらの場所で起きるすべての出来事を見せた、と言う気はないよ、ということを示唆するためにね」と答えているのだ。
つまり、この映画もそうだし、当然、菅谷氏の本も、豊田氏の論考も、それぞれの視点から取捨選択し、それぞれの立場から「重要だ」と思ったことを伝えているのだ。もちろん新聞記事でもテレビのニュースでも、SNSの投稿でさえ、伝えられていないなにかが、必ずある。嘘やバイアスなどとは別に、情報をある種の塊にするには、必ず利害関係や偏向が起きてくる。「すべての情報は取捨選択されている」と、菅谷氏は指摘する。
なぜその情報を発信しているのか? という「目的」と、その「情報源」はなにか? そしてなにが伝えられていないのか? そういった視点を持つことが「メディア・リテラシー」の考え方だと菅谷氏。このコラムをここまで書いたところで、イベントの際に購入した菅谷氏の著書『メディア・リテラシー』を、まだ読んでいないことを思い出した。締まりのないコラムになってしまったが、書き終えたら、熟読したい。