《この記事は約 6 分で読めます(1分で600字計算)》
中国における日本文学の翻訳事情について、北京大学・馬場公彦氏によるレポート後編をお届けします。前編はこちら。
【目次】
日本側出超、中国側入超の不均衡
日本文学の翻訳上の諸課題
中国図書市場での日本文学の人気が過熱気味に高まっていることは喜ばしい。だがそれゆえの悩ましい問題も顕在化している。田雁さんの研究書と尹朝霞さんの論文の指摘をまとめよう。
第1に重複出版の増加。とりわけ版権許諾料の発生しないPD作家の作品は、各社がこぞって出版している。尹さんの挙げた例によると、芥川の『羅生門』は訳者と出版社を換えて21点の版本が出ている。話題沸騰中の太宰『人間失格』は22点出ている。翻訳者同士が力量を競いあうことで訳文の質が向上し、読者が訳文の個性を吟味するという愉しみもあろうが、ここまで重複が激しくなると、あとは出版社同士が価格・装丁・付録などでの差異化を競うほかないのが実情である。
第2に版権料の高騰。人気作家となると複数社からのオファーが殺到し、競争入札となり、新作が出るごとに版権の争奪戦のボルテージが上がり、版権料はせり上がっていく。田さん尹さんは具体的なアドバンス料を明記しているが、東野圭吾などはある出版社では7年間で十倍の額にまで嵩んだ。
第3に海賊版の横行。最近は紙本の取り締まりが厳しくなっているが、電子書籍での無許可本が増えているようだ[6]。中国共産党指導部は自国で開発した知財をリソースとして海外普及を図る必要もあって、知財権の保護をより徹底させる方針を打ち出しており、今後はより厳しく海賊版を取り締まる事になるだろう。日本側の著者・出版社の不安と不信を払拭するためにも、事態の改善が望まれる。
翻訳のレベルは高い
なお、翻訳のクオリティについては、数多くの訳者の多種多様な訳文が出版されており、一刀両断にはその評価を定めがたいことは言うまでもないが、概していえば正確さと流麗さの点で総じてレベルは高いように思う。とりわけPDとなった近代の古典的名作については確かであろう。その根拠は、魯迅・周作人を始め、近代の名だたる文学者・作家が数多の作品の翻訳を手掛け、その遺産と伝統を継承しながら訳文に磨きがかけられてきたからである。また、大手出版社になると各社とも日本語に通じた編集・版権の人材を抱えており、訳文の品質管理に寄与しているからである。
奉職する北京大学外国語学院日本語学科の教員の面々の達意の日本語と豊富な翻訳実績と、受講している学生たちの日本語能力の目を瞠るほどの高さを日々実感している筆者としては、太鼓判を押したい。
美食家たちの楽園
中文版の日本文学に関しては、版権争奪競争の過熱と、翻訳対象の作品タイトルの飽和状態を呈しており、読者の要求と商業的目論見から、カオス気味の乱立の様相を呈している。文学作品に対する公正で客観的な評価、文学史上の位置づけがなされない状態で、いわばプラットフォームが未構築のまま、雑然と出版物が積み上げられていくような状態である。
筆者の大雑把な印象ではあるが、日本文学の優れた翻訳者は豊富多彩だが、日本文学のコンテンツを整序し読書界に提供するオーガナイザー、あるいは日本文学愛好家にとってのコンシェルジェに相当するような人材が必要とされているように思う。例えば北京大学のような総合大学においても、学内に日本文学の専門学科は存在しない。研究者としてはわが日本語学科に古典と近代専攻の研究者が2~3名いるだけである。
いまの中国の読書界は、美食家たちが日本文学の美酒佳肴を振る舞われるまま貪欲に堪能するような状態にある。料理の素材を損なわず調理し見事に盛り付ける調理師は豊富に抱えているが、料理の蘊蓄を傾け、料理の背後にある文化伝統の広がりへといざなうような、フードコーディネーターの人材が不足している。
問題は日本の側にある
だが問題はより日本の側にあるのではないか。これだけ日本文学が長期に渉って中国で翻訳出版され、あらゆるジャンルに多くの愛読者が広がっているにもかかわらず、日本の作家・研究者が中国の読書界・出版界の現場に乗り込んで対話をする機会があまりに少ない。中国で文学関連の学術交流をしている日本人は、主に中国文学研究者である。彼らは中国語に堪能ではあるが、中国側が求めている対話の相手は日本文学研究者であり、日本の作家である。
だが、日本文学研究者にせよ、日本の作家にせよ、いざ中国で文学対話を試みようとすると、彼らの素養および読書履歴の中に、今の中国人が慣れ親しんでいる中国文学の作品が欠落している。『論語』『三国志演義』『水滸伝』『唐詩選』といった古典はお手の物かもしれないが、近代となると魯迅『阿Q正伝』、老舎『駱駝祥子』あたりがせいぜいのところである。
冒頭に2002年から2011年にかけて中国が輸入した日本の書籍の版権は1万2600点と述べたが、おなじ田雁の調査によると、国会図書館の蔵書目録の統計では2000年から2012年の間に日本で訳された中文書は1477点に過ぎない。しかもその大半は古典作品の翻訳である。現代作家のものと言えば、ノーベル賞作家の莫言と武侠(カンフー)小説の金庸・古龍は別格として、王蒙・鉄凝・張賢亮・賈平凹などの大作家、最近では余華・閻連科とSF小説の騎手 劉慈欽・郝景芳など数名に過ぎない。この間、日本で出版された中国関連図書は2万4206点に達する。だがそれらは日本の作家か、日本の中国問題研究者によって書かれたもので、中国の出版界の動向を反映したものではない。従って中国の専門家の視点とずれているもの、互いの見解が相容れないものが少なからず見受けられる[7]。
言ってみれば、中国側は翻訳を通してふんだんに日本の原産地の食品を賞味しているのに対して、日本はいわば日本人の嗜好向けに加工された中華料理を賞味しているに過ぎない。たとえラーメン・餃子・天津丼・レバニライタメが好物だからといって、本場の中国料理を語る事はできないのだ。
打開の鍵も日本側にある
日本の専門家が無為無策というわけではない。むしろ日本の現代中国文学研究者は、中国現代文学の翻訳事業において、これまで長期に渉って獅子奮迅の粘り強い取り組みを続けてきた。例えば、1987年に創刊された『季刊 中国現代小説』という中国文学研究者同人による翻訳作品のアンソロジー雑誌は、2005年に終刊となるまで通巻72号を発行し、収録された作家総数145人、作品総数320篇に達する。このほかにも『中国現代文学』『火鍋子』『灯火』などの翻訳専門雑誌が発行されている。必要があって中国女性作家に限ってこれら4雑誌において掲載された作品数を数えてみたところ、なんと180篇にも達した。
おそらく日本は世界で最も多く、中国現代文学が翻訳されている国だろう。だがそれらの成果が読書界の話題を喚起しておらず、一般読者の関心と切り結べていないのが実情なのだ。
日中間の図書コンテンツ輸入における日本側出超・中国側入超のアンバランスは、文化交流が交流の態をなしておらず、一方通行状態にあるということだ。2020年の言論NPOによる第16回日中共同世論調査の結果によると、中国に良くないという印象を持っている日本人は昨年から5ポイント増の89.7%に達している。それに対して、日本に良い印象を持っている中国人は45.2%と上昇傾向を維持している[8]。まさに日中の片思いが数字に表れた結果である。
今ほど日中間の文学者・研究者同士の作品を通しての対話、編集者・出版社同士の版権売買を通したウィンウィンのビジネスパートナーシップの構築が求められている時はない。
参考リンクなど
[6]尹朝霞前掲46-51頁、田雁前掲書第3章2の6
[7]田雁前掲書第8章の1
[8]https://www.genron-npo.net/world/archives/9354-2.html