浸透する日本のコンテンツ ―― 中国書籍市場の3割を占める巨大な児童書市場の特徴(後編)

馬場公彦の中文圏出版事情解説

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Photo by kattebelletje(from Flickr / CC BY-NC 2.0
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 北京大学・馬場公彦氏による中国の出版事情レポート、今回は児童書市場について前後編でお届けする。前編はこちら

巨大な児童書市場での日本のプレゼンス

ポプラ社現地法人が種を蒔き中国に定着した絵本文化

 子どもたちが親とともに集まる児童書スペースには、前編で紹介した新業態書店のほかに、「絵本館」がある。著者の住む宿舎のある北京大学東門の近傍にも「墨盒子(Mobox)」という絵本館があり、子どもが本を読んだり、工作をしたり、朗読会をする、小さいながらも楽しくファンタジックな内装を凝らした場所である。図書は販売もしているが、基本は貸本業である。

 この絵本館を普及させ、絵本文化を中国に定着させたのが、ほかならぬポプラ社の中国現地法人の北京蒲蒲蘭である。同社の設立は2004年、中国で最も早く出版物の小売・卸売り売買資格を取得した外資企業で、同業同種の在中日本法人のうち出資金100%の企業は、中国でいまなお唯一無二であると言ってよい。当時の中国の児童書の主流は、各頁定型の挿画の下にト書きの施されたポケットサイズの連環画で、絵本という図書ジャンル、親子で絵本を楽しむ習慣はなかった。「絵本」という言葉すらなかった。そこで北京蒲蒲蘭は中国に絵本文化を根付かせるというビジョンで事業を立ち上げた。

 同社最高顧問の石川郁子は、筆者の取材にこう応えた。

「2000年当時、この事業を立ち上げた頃には、本当にすべてがゼロ、中国の絵本は空白に近かったので、何もかも手探りで試行錯誤を繰り返してきました。でも絵本の持つ力を信じていましたし、子どもたちの成長ひいては大人の心の豊かさにとっても欠かせない存在であり、中国にも豊かな絵本文化が花開く日が必ず来ると確信していました。軌道に乗るまでには10年かかりましたが、普及が始まってからは私の予想を超えるスピードで絵本は中国社会に浸透していきました。それを支えたのは、単に出版社のビジネス努力だけではなく、やはり絵本に魅せられ、絵本を愛する多くの人々の地道な努力と息の長い推進活動であり、そうした社会の広範な支持に支えられてこそ、文化として根づく基盤を獲得できた。中国の絵本は、様々な規制や壁を乗り越えていく文化の力を備えつつあると思います。」

 かくして今や隆盛を極める中国絵本の黎明は、外資系出版の参入とともに始まった。その後ネット書店の参入とともに絵本市場が成長し、国内民営出版業者が絵本市場に参入して、2010年代には好況の経済とともに積極的に世界中の名作絵本の版権を購入して、いまやタイトル数で75%、売上で90%を翻訳物が占める。なお、2017年時点で、中国の国営出版社総数584社のうち、児童書専門出版社は33社ある。

 そして今、児童書出版の現場では、現地に即したオリジナルコンテンツを創造し、商品化・オンライン化によって子どもたちの生活現場に送り届ける、いわばIP開発の積極的推進を展開している。北京蒲蒲蘭ではティラノサウルスシリーズで人気の絵本作家・宮西達也氏を招いて、大型モールでの同社主催の夏休み読者イベントやギャラリーを開き、中国の児童との交流を広げ、同シリーズの累計販売数は約800万部に上る。

 同様に、児童書10社の会に参加する日本の児童出版社のうち、オリジナル作品を多数抱える出版社は、中国との児童書版権の取引を活発に展開している。単に書籍単体の翻訳権販売だけでなく、IP開発にも乗り出している。10社の会に属してはいないが、株式会社PHP研究所は2016年から4年をかけて絵本作家・深見春夫氏をプロデュースし、中国向けのタイトルを開発・契約することで、同氏を中国でも有名作家に育てた。2020年のネット通販大手の京東モールで、深見氏は『ハリー・ポッター』のJ.K.ローリングに次ぐ第3位の人気作家となった。

 ここにきて、中国絵本市場は混迷と調整のモードに入りつつある。ある現地の出版消息筋によると、2017年から翻訳物であふれた児童書にセーブがかかり、児童書ライツの輸入と輸出を1:1にせよという行政指導がなされ、中国国産のオリジナルコンテンツを製作していこうという動きをもたらしている。たとえば北京蒲蒲蘭社では、2016年に中央美術学院を卒業したばかりの李明星の作品『カワウソ先生のお隣さん(水獭先生的新邻居)』『スーダンのサイの角(苏丹的犀角)』が人気を博している。

新経典文化有限公司『窓際のトットちゃん』中文版誕生秘話

 児童書売り上げ良好書の年間ランキングを見ると、がんらい中国ではロングセラー志向が強く、とりわけ児童書の場合は、変わらない常連さんが上位タイトルを飾る。中国国内の作家として、曽文軒の『青銅とひまわり(青铜葵花)』や、孫魚の『こぶたのつるつる(小猪唏哩呼噜)』、沈石渓の『狼王夢(狼王梦)』などの名作系、小学校低中学年向けの読物『米小圏』シリーズ(米小圈上学记)などとならんで、不動の上位指定席を占めているのが、ほかならぬ黒柳徹子『窓際のトットちゃん(窗边的小豆豆)』なのである。

 原作は1981年講談社のベストセラー。中国ではいまや「小豆豆」といえば誰一人として知らぬもののないほどになった超ロングセラーである。この作品、翌1982年にはすでに海賊版が中国国内に現れ、いつしか4~5種類に上っていた。黒柳自身もパンダ博士として訪中したさい、この事実を知って驚いたが、翻訳されて中国の人たちに読んでもらえているということを素直に喜んだと、『小さいころに置いてきたもの』(新潮文庫)のなかで書きとめている。

 ところが1992年に中国が万国著作権条約に加入すると、海賊版は市場から消えていった。民営出版社の新経典文化有限公司の創始者である陳明俊は、幼い頃に読んだ本書が忘れられず、中国でこの本を正規の図書として出版したいという理想を抱き続けた。同じく創始者・猿渡静子は陳の意を汲み、会社創設から間もない2002年、講談社インターナショナルを通して版権を取得し出版。海賊版が行きわたっていることで売上を懸念する声があるなか、いまや累計販売部数1200万部を超える同社の看板書籍の一つとなった。新経典もまた出版社では珍しく上海証券市場に上場する最大手の一つに成長した。

 猿渡は、筆者の取材にこう応えた。

「『窓際のトットちゃん』はいまや教師・親・子どもたちの必読書となりました。この一冊の児童文学が中国の教師と親たちの教育観を変えたのです。学校は素敵で憧れの場所になりました。この出版を手がけられたことは私の人生にとっての一つの誇りです。」

 日本の出版業界には、海賊版が後を絶たない現状に対して、中国との販売ビジネスを躊躇する向きがあるかもしれない。しかし、正式の契約による正式の出版物は、著者からの信頼も相まって、悪貨を駆逐して市場に浸透していくものだという気づきを得ることができるだろう。

〈了〉
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著者について

About 馬場公彦 32 Articles
北京外国語大学日語学院。元北京大学外国語学院外籍専家。出版社で35年働き、定年退職の後、第2の人生を中国で送る。出版社では雑誌と書籍の編集に携わり、最後の5年間は電子出版や翻訳出版を初めとするライツビジネスの部局を立ち上げ部長を務めた。勤務の傍ら、大学院に入り、国際関係学を修め、戦後の日中関係について研究した。北京大学では学部生・大学院生を対象に日本語や日本学の講義をしている。『人民中国』で「第2の人生は北京で」、『朝日新聞 GLOBE』で「世界の書店から」連載中。単著に『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』法政大学出版局、『戦後日本人の中国像』新曜社、『現代日本人の中国像』新曜社、『世界史のなかの文化大革命』平凡社新書があり、中国では『戦後日本人的中国観』社会科学文献出版社、『播種人:平成時代編輯実録』上海交通大学出版社が出版されている。
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