著作権は文化のためになっているか ~ 雑誌「広告」Vol.414(3月26日発売)より

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 本稿は、クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0国際(CC BY 4.0)ライセンスに基づき、雑誌「広告」Vol.414(3月26日発売)掲載の猪谷誠一氏(文)/猪谷千香氏(編集協力)によるコラム(7月9日に「note」で公開)を改変・転載しています。

(※改変点:転載にあたり、行頭字下げの追加を行っています。また、元記事の図版は著作権法第32条「引用」に基づき掲載と記されていますが、イギリス国立公文書館の高解像度画像の利用は供給金を要すること、早稲田大学図書館古典籍総合データベースの画像は無断利用を厳禁し法的措置も辞さない旨が謳われていることなどから、画像の転載は断念し、出典へのリンクのみとしています)

著作権は、作品の価値が高まるのを阻害する

 何かを創作した人が、自分の創作物をコントロールするのは当然だ。なぜなら、それが著作権というものだから。私たちはそう考えるかもしれないが、そもそも著作権とは一体、なんのためにあるのだろうか。たとえば、子どもの頃、誰かがおもしろい遊びのルールや言葉を「発明」すると、みんながそれを真似たり、アレンジして「進化」させたことを思い出す。あるいは、宴席で流行りの芸人のものまねをする人もいるかもしれない。そこに芸人本人がやってきて、「これは自分が考えた芸なのだから無断で使うな」と言ってきたら?

 正しいかもしれないが、どこか釈然としないのも確かだ。遊びのルールや言葉、芸人のセリフや身振りは、ほかの「モノ」とは違って、他人が使っても減ることがない。文章や映像、音楽もそうだ。そして、多くの人がそれを使うことで、価値が上がるとすら言ってもいい。

 逆に言えば、どれだけおもしろくても、誰にも共有されなければ存在しないのと同じである。作品の共有は、作品の価値も作者の価値も高めてくれる。

 ところが、著作物の複製を禁じる現在の著作権制度は、その「共有」にブレーキをかけているとも言えるのだ。

コピーは市場を回す「燃料」

 人々が創造性を発揮する領域すべてが著作権で保護されるわけではない。

 コンピュータプログラムが著作権法に明記されたのは、日本では1985年以降のこと。レシピ、スポーツやゲームの戦略などはいまも著作物として保護されていないし、先に例としてあげた芸人のネタもそう。ファッションデザインは意匠権、不正競争防止法などで保護されているが、EU諸国を除いて、そのほかの国々ではやはり著作権保護の対象外だ。

 ではこれらの領域で、音楽や出版と比べて創作が低調かというと、そうではない。毎年のように新しいものが考案され、魅力的なものはコピーされ、アレンジされていく。みんなにコピーされれば、陳腐化は避けられない。そこで、さらに新しいものが考えられていく……著作権によるブレーキがないことで、これらの市場はダイナミックに循環し、よりイノベーティブになっているとも言える。

 たとえば、ファッションデザインの業界を見てみよう。デザインを「パクった」安価な商品が出回ると経済的な被害があるように思えるが、実際には、そのマイナスは小さいと言われている。というのも、ハイブランドの商品とコピー品とではターゲットが異なるからだ。ハイブランドを買う人の多くは「そのブランドから出ている服である」ことに価値を置き、コピー品には見向きもしない。

 また、コピーが出回るということは、そのデザインが流行しているという証でもあるので、元のデザイナーの評判を高めてくれる一面も否定できない。コピーという「燃料」が出回ることで、流行のサイクルが早まり、新しいデザインへのニーズがシーズン毎に生まれ、より多くのデザイナーがチャンスに手を伸ばせるようになる。

 仮に、ファッションデザインが世界的に保護され、流行のサイクルが緩やかになれば、こうした循環は狭い範囲のものとなり、業界全体がシュリンクしてしまう可能性もあるのだ。

著作権制度は複製業者のためにつくられた

 こうした著作権で保護されていない領域の事例を見ていくと、著作権は作品や作者の価値が高まることを阻害し、創作のサイクルにブレーキをかけているように思えてくる。それでもなお、著作権制度が必要とされるのはなぜだろう?

 いまの私たちからすると、著作権制度は作者を保護するというイメージがある。しかし、その歴史をひも解くと、著作権制度はまったく異なる思想からスタートしたことがわかる。

 そもそも、作品を複製(大量生産)して流通させるにはコストがかかる。書籍であれば印刷や製本、音楽であればCDの生産のように、著作物を広く世に届けるには莫大な設備投資が必要だ。大量に複製してもまったく売れないというリスクもある。昨今では消費者に著作物を認知してもらうための広告・宣伝費もバカにならない。

 こうした環境の下では、売れるとわかっているものを複製する「タダ乗り」がもっとも合理的な戦略だ。しかし、誰もがタダ乗りを狙っていると、新たに作品を創作する者がいなくなってしまい、ちまたにはコピーばかりが出回ることになる。

 それならば、最初に複製を行なった者に次なるタダ乗りを排除する権利を与えればいいのではないか……著作権はそんな発想から生まれていた。複製業者の保護が先で、作者の保護は二の次だったのだ。

著作権は作者・作品とは無関係

 近代的な著作権が生まれた英国を例にすると、出版業に活版印刷術が導入され、最初の文書(免罪符)が印刷されたのは1470年頃。それから約2世紀以上の間、いまで言う「著作権」にかかわったのは書籍業者、つまり複製業者と流通業者だった。

活版印刷により、英国で最初に印刷された免罪符:イギリス国立公文書館(THE NATIONAL ARCHIVES)

 当時、英国の出版業は書籍業カンパニー(Stationers’ Company)というロンドン市内のギルド(中世ヨーロッパで起きた商人や手工業者などによる同業組合)が独占していた。一方で国家から見れば、ギルドへ独占権を与えることで出版業全体を管理下に置き、反体制的な思想を効果的に検閲できた。出版に関する権利の独占は、ギルドと国家の双方にとってメリットがあったのだ。

 ともあれ、ここで焦点になっているのは、海賊版や市外の業者を排除してギルド所属員のみが出版物を販売できる独占権。これが版(copy)に対する権利(right)、copy-rightと呼ばれるようになっていく。

 この時代、著者の存在感は稀薄だった。その背景には当時の書籍の性質がある。その頃、売れていたのは聖書、贖宥状(しゅくゆうじょう)(免罪符)、祈祷書、暦、法律書などで、特定の「作者」との結びつきは薄かった。のちにシェイクスピアの戯曲も売れるようになったものの、死後50年近く経ったいわば古典作品。要はこの時期、作者は「いなかった」も同然なのだ。

 こうした状況は日本も同様だった。1720年代に江戸、京都、大坂に書籍業者の組合である本屋仲間が公認された。そして、その本屋仲間の台帳に記載され、かつ、奉行所から許可を得た書物しか出版できないという体制がつくられた。

 本屋仲間では重板(無断複製)や類板(少し改変しただけの出版物)を禁じ、検閲や苦情処理のための組織を置いていた。ここで保護されたのは版木。まさに版木(copy)に対する権利(right)だったと言える。鎖国をしていた上、活版ではなく木版による印刷が主流だった日本でも、検閲と独占を抱き合わせた、英国とそっくりな体制がつくられていたのだから驚きだ。

稀薄だった作者の権利意識

 複製業者の保護が検閲とセットになって制度化されたのとは対照的に、作者の保護は非常に限定的だった。

 確かに作者は苦心して作品を生み出した唯一の存在である。さかのぼれば、古代ローマ時代、他人が自分の作品を盗作・発表していると知った詩人が、「私の作品だと言って発表するなら無料で進呈するが、自分の作品だと言いたいのなら買い取ってもらいたい」と呼びかけた記録がある。昔から、自分の作品は自分のものだという感覚は確かにあった。

 しかし、この詩人にできることは盗作者に呼びかける程度。法に訴えることはできなかった。ほかにも、古代ギリシアでは亡くなった劇作家の作品を「改善」するための公募コンテストが開かれたとか、新しい戯曲を募集したら既存作品の焼き直しばかりが集まったという記録が残されている。

 いまの感覚で言えば、本人のあずかり知らぬところで作品が改変されるなどもってのほかだと思うだろうが、当時はあたりまえだった。作者は、あくまで書籍という商品の材料供給元のようなもの。唯一無二の作者として、特権を持てるという考え方はなかったのだ。

 著者自身が権利を求めて声をあげるようになったのは、書籍業者が有望な作家を発掘して新刊を出版することがビジネスになってから。もっとも早いのは英国で、1670年代以降のことだった。こうした動きを受け、1710年の英国でようやく著者にも権利があることが法律で明らかにされた。1450年代の活版印刷術の発明から数えると、作者の権利が生まれるまでにおよそ260年もの時間がかかったことになる。

 しかし、作者の権利が明らかにされたあとも、既得権益を持つ書籍業者は作者が自らのビジネスに介入することをあの手この手で妨害し続けた。

ギルドの自己正当化で育った「著者の権利」

 そんな書籍業者の妨害は、皮肉にも著者の権利を強化することになる。引き続き、英国の事例を見てみよう。

 世界初の本格的な著作権に関する法律として知られるのは、上述した1710年に制定された英国「アン法」(アン女王の名前にちなんで命名)だ。書籍業者に対し、既刊に21年間、未刊の場合は14年間の印刷独占権を保証した。14年の保護期間が終了した時点で著者が生存している場合には、独占権が著者に渡り、さらに14年の保護が与えられる。最大28年という、保護期間の明確な「終わり」が導入されたのも特徴だ。

 この法律によって、保護期間に最初の「終わり」が訪れた1730年代、書籍業者は保護期間をさらに21年延長しようと改正法案を提出した。しかし、議会で二度も廃案にされてしまう。そこで書籍業者は、自分たちの特権を継続させようと裁判所に訴えを提起した。

 その理屈は、「アン法に定められた権利は、『出版を独占するための独占権(copy-right)』である」というものだった。そして、「それとは別に、著作者は『創作者としての権利(著作権)』を持っている。書籍業者はそれを買い取っているのだ」と訴えた。今日のわれわれにとってはあたりまえに感じられる「copyright=著作権」の認識が生まれたのが、このときである。

 さらに、1760年には自分たちに有利な判決を得るため被告の訴訟費用も負担したヤラセ裁判まで提起した。この裁判は書籍業者側有利で進んだものの、結局ヤラセと露見してしまう。それ以後も、ロンドンの書籍業者による独占をよしとせず、確信犯的に海賊版をつくり続けたスコットランドの書籍業者との間で同じような裁判が何度か行なわれ、最終的に「copy-rightの保護には終わりがある」という形で決着した。

 この判決に対して、「権利保護が限定的では出版界が危機に陥る」とロンドンの書籍業者は反発したが、歴史を見れば、18~19世紀の英国出版界は繁栄を極めている。現在も、著作物の市場を活性化させるためには著作権保護の強化が必須という主張があるが、歴史的には否定されている。

 この裁判で書籍業者は、「著者が持つ権利を買い取っているだけ」という理屈を持ち出したが、これは英国だけでなく、ドイツやフランスでも同様だった。ところが、それはかえって著作者に「ならば自分たちがそもそもの権利を持っているはずだ」という権利意識の芽生えをうながし、最終的に著作者の権利を確かなものとする皮肉な結末を招くことになった。

著作者人格権の誕生

 しかし、ここで確かになったのはあくまで著作物に対する「所有権」のようなもの。1730年代以降も、作者やその遺族が書籍業者に著作権を譲渡せず出版することは難しかった。

 ここで、現代日本の著作権について整理しておこう。いまの著作権法では、著作者は「著作財産権」と「著作者人格権」というふたつの性質を含む権利を持つとされている。「著作財産権」とは、複製、上演、演奏、公衆送信、翻訳、二次的著作物の利用など、著作物を人々に届けて儲けるための権利のことで、第三者に譲渡することも可能だ。まさに書籍業者や本屋仲間が利用していた権利である。これを指して単に「著作権」と呼ぶこともある。

 一方、「著作者人格権」は無断で公表や改変することなどを禁じる作者の人格を守る権利を指しており、こちらは第三者に譲渡することはできないし、日本法では相続もできない。先のローマ詩人の例のように、古くから人格権らしきものは認識されていたようだが、本格的に保護されるのは1710年よりもさらに1世紀後、19世紀になってからのことだ。ドイツでは偽ものを取り締まるため、フランスでは係争を処理するために著作者の人格に注目する理論が生まれ、それが著作者人格権に発展した。ドイツやフランスで生まれた著作者人格権は、「外国の著作物であっても、国内の著作物と同等に保護する」ことを定めたベルヌ条約に盛り込まれたことで、その後世界中に広がっていく。

 一方で、英米は著作権に人格権を認めることに消極的だった。とくに米国では、1989年まで著作者人格権を認めてこなかった。わざわざ明文化しなくてもほかの連邦法や州法によって保護できるから、というのがその理由。著作権の国際的な保護を定めたベルヌ条約への加盟を受けて1990年に人格権を認めたものの、その保護内容は非常に制限的なものだった。

 ところで、私たちが「著作権侵害」と聞いて連想するのは盗作や作者の意にそぐわない改変ではないだろうか。これらは著作者人格権の侵害に該当する。そういった行為を規制するのはあたりまえにも思えるが、意外にもそれがルール化されたのはごく最近なのである。

明治初めの日本で起きた「大人げない」戦い

 さて、こうした著作物に関する権利の考え方は、開国した明治日本にも流れ込んでくる。そのなかには様々なトラブルや議論があった。

 たとえば、台湾出兵を機に清との緊張が高まっていた1875(明治8)年、戯作者として知られる仮名垣魯文は清国の「秘密を洩す」と称し『現今支那事情』を出版した。しかし、前年に出版されていた『支那事情』からの大規模な盗用が発覚。『支那事情』の訳者である永峰秀樹は激怒し、新聞紙上で「勧善懲悪を説く者が『他人の文を盗む』のは、貧苦のあまりに窃盗する徒よりもなお罪は重い」と批判。魯文の家に怒鳴り込んで謝罪を取りつけ、訴訟すらちらつかせた。いまで言う「炎上」騒動を起こした魯文は、新聞紙上でこんな弁解をしている。

「いろいろなところから抜粋していたら60~70枚になっていたのを出版社が出したいと言って抜書きしてきた。それをひらがなに直して出版しただけ」「所詮私は戯作者。買いかぶらないでいただきたい」「永峰の『支那事情』も所詮洋書の抄録ではないか。そこから少しばかり抜かれたからといって騒ぎ立てるのは大人げない」

明治8年5月29日の郵便報知新聞に投稿された仮名垣魯文の弁解/『復刻版・郵便報知新聞 第5巻』(柏書房、1989年)に掲載

 まさかの「逆ギレ」である。当時、新聞はまさにニューメディア。昨今のSNSやニュースサイトのコメント欄を彷彿とさせるこの炎上を、当時の人々はどう見たのだろうか。

 また、あの福澤諭吉も著作権をめぐって強硬な姿勢をとり、批判を浴びたことがある。文筆で身を立てようとしていた福澤は、自著の海賊版や無断利用に対して非常に攻撃的で、出版差止め、版木没収や規制の導入を当局に何度も訴えた。海賊版の出版者を捜索する新聞広告まで出している。

慶応4年4月10日の中外新聞に福澤諭吉が出した海賊版出版者の捜索を依頼する広告(早稲田大学「古典籍総合データベース」)

 そんな活動が功を奏してか、1869(明治2)年には公的機関への大意の提出(検閲)、出版者と翻訳者の保護を定めた出版条例、1875(明治8)年には福澤の造語「版権」が取り入れられた改正出版条例が定められた。そうした福澤の姿勢に対しては、「度量が狭い」「福澤の思想など学ぶべきではない」といった批判の声もあった。

 また、本屋に版木を譲渡せず自ら出版を行なっていた福澤にとって重要だったのは、海賊版や改変版の取り締りだったようで、著作者の権利保護については、あと回しでいいと考えていたようだ。

居直る日本

「文学や技術上の発明者の権利を保護し、他人の発明を剽窃させないことは大事だが、発展途上であるわが国の現状を鑑みると、著作権保護条約に加盟することは他国の利益ばかりでわが国に利益はない」

 国をあげて他国の本や技術をコピーしていくぞ、と言わんばかりのこのセリフ、一体どこの国が、と思うかもしれないが、1884(明治17)年の日本政府内の意見である。

 スイス政府から、「ベルヌ条約を制定するので代表委員を派遣して欲しい」と要請された日本の外務省は、各省に意見を求めた。戻ってきた回答は上述のような拒絶意見ばかり。他国の発明をコピーすることを国が認めるようなもの言いは、いまの私たちからすると驚きだ。著作権の保護は文芸・産業振興のための手段にすぎないという、ドライな見方をしていたのだろうか。

 しかし、当時西欧各国と結んでいた不平等条約を改正するには、ベルヌ条約への加盟が不可欠とされてしまった。渋々ながら条約加盟に向け動き始めた日本政府に対して、出版界や大学などからは懸念の声があがった。

 東京朝日新聞(現在の朝日新聞東日本版)は、ベルヌ条約が「有害な同盟」であり「日本のような後進国が加入する理由は徹頭徹尾ない」と反対の論陣を張ったし、「言語も文字も異なる遠い異国に自分の氏名と作品が紹介される。その名誉だけで報われたと言うべき(で、著作権料まで取ろうとするのは強欲だ)」とまで書く雑誌もあった。

 加盟後にも、読売新聞が「日本語への翻訳は対象外にするよう建議し、とおらなければ条約から脱退すべき」、当時の衆議院議長まで「発展途上のわが国はいまだ欧米の新知識を必要としており、翻刻、翻訳が必要なのに、それを制限するベルヌ条約に加盟したのは不用心だ」と雑誌に寄稿するなど、非難囂々。世間は、欧米に追いつくためには、著作権侵害もやむなしという空気だったのだ。

著作権を補完する試み

 ここであらためて、現在の著作権法の第一条を見返してみよう。

「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」

 条文を読むと、目的は「文化の発展」であって、著作者の権利保護は手段でしかないことがわかる。著作権の歴史を研究した白田秀彰は、著作権はいつの時代も「その環境に応じた最適な情報環境を、市場原理を使って実現する」ように形づくられてきたとする。

 著作権は商品ではなく、社会をよりよい方向にあと押しする礎である、と言い換えることもできるだろう。では、いまの制度はそのように機能しているだろうか。白田はさらに、「コピーが安価かつ完全に可能なネットワーク環境において、コピーを禁止するのは極めてナンセンス」と指摘している。また、2018年から2019年にかけて起きた「漫画村」など海賊版サイトの問題では、読者が安心して使える使い勝手のいいサービスを用意できない出版社や書籍流通業界の無策を責める声も目立った。

 ひるがえってネットを見れば、誰がつくったのかはっきりしない作品が大量にあふれている。そのなかから「これはいい」と思って紹介すると、「それはパクリですよ」と指摘されることもある。混沌としていて、とても「最適な情報環境」が実現しているとは言い難い。いまの著作権制度は、こうした現状に対応しきれていない。

 そこで、作者を守るのでも出版社を守るのでもない著作権制度の姿を、そして時代に沿った形で著作権制度をハックする試みを紹介しよう。

まだ見ぬ用途に開かれたフェア・ユース

 現行の著作権制度にも、社会に対する配慮はある。著作者が著作物をコントロールすることを認める一方、それが及ばない領域も定めているのだ。日本法なら、条件を満たせば引用は無断で行なえるし、購入した本をコピーしたり他人に貸したりすることもプライベートなら問題ない。書籍を点字にしたり、図書館が貸し出したりすることもできるよう、法律は整備されている。そして何より、著作者の死後ないし作品の公開から一定の期間が経てば著作権保護期間が切れることや、アイデアが保護されないこともそのひとつと言えるだろう。

 自分の作品を名指しで批判されれば腹が立つ。図書館で本を借りるくらいなら買って欲しい。自分が苦心してつくったのだからずっと著作権は保護してもらいたいし、アイデアだって守って欲しい。

 ……個人の気持ちとしては理解できる。しかし、その個人の気持ちを法が認めてしまっては、社会は豊かにならないというわけだ。米国の著作権制度には、さらに広い「フェア・ユース」と呼ばれる制度がある。著作権者の許諾なく著作物を利用したとしても、公正な利用であれば著作権侵害にはならないと定められている。日本と決定的に異なるのは、「公正である」という要件を満たせばどんな用途でも著作権侵害にならない点だ。このフェア・ユースが秘めるイノベーションをあと押しする事例が、近年注目されている。

 その事例のひとつがGoogle Booksだ。Googleは2004年から世界中の書籍をスキャンして検索できるサービスを始めた。事前許諾を得ずに書籍をデジタル化することは著作権侵害ではないかと提訴されたが、Google側はフェア・ユースを主張し、最終的に連邦最高裁で勝訴している。

 また、フェア・ユースはとくにアートの世界で活用されている。他人の作品をそのままに近い形で使ったアート作品(アプロプリエーション・アート)で知られる画家・写真家のリチャード・プリンスがその好例だ。2015年、プリンスはInstagram上の他人の投稿にコメントを書き込み、それを印刷して自分の「作品」として10万ドル以上の値段で販売した。

 また、ジャマイカの宗教的思想運動ラスタファリの人々を撮影した写真家・パトリック・カリウの写真集を切り貼りした作品群を制作したこともある。カリウに訴えられたプリンスはフェア・ユースを主張。最終的には和解に至ったものの、控訴審はプリンスに有利な判決を出したため、美術界に衝撃が走った。

 著作権者に無断で書籍をスキャンし検索対象にすることや、他人の写真集を切り貼りした作品までがフェアとされたことに対しては批判もある。しかし、将来どう使われるかわからないことを受け入れ、まだ見ぬ可能性への扉が開かれている米国流フェア・ユースの懐の深さは魅力的だ。

利用者に共有を強制するコピーレフト

 フェア・ユースは、単に著作物を保護するだけでは社会が豊かにならないとして、権利の手が及ばない「セーフゾーン」として国がつくったものと言える。しかし、それ以外にも、著作権の制度を使って著作物の共有を推進する仕組みがいくつか提案されている。なかでも有名なのが、「コピーレフト運動」と「クリエイティブ・コモンズ」だ。

 コピーレフト運動は、「派生物の共有を妨げない限り、利用を許可する」というライセンスでソフトウェアを公開する運動だ。その始まりは、1980年代の米国。当時コンピュータを利用する人々にとって、自分が書いたプログラムを公開し、知識の共有や改善にコミットするのは当然のことだった。マサチューセッツ工科大学(MIT)の人工知能研究所で働いていたリチャード・ストールマンもそう思っていた。

 あるとき、とある企業からストールマンが開発・公開したプログラムを改善して商品化したいと連絡が来た。そこで彼はパブリック・ドメイン(著作権が放棄された誰もが自由に使えるもの)版を提供した。しかし、のちにどういった点が改善されたか見せて欲しいとその企業に依頼したが、著作権を理由に断られ、どうすることもできなかった。

 自分の著作物を自由に使えるようにしただけでは、他人がそれを囲い込むことを防げない……パブリック・ドメインの限界を悟った彼は、ソフトウェアの囲い込みを禁じ、共有可能にするライセンス(のちにGNU GPL=GNU General Public Licenseと名づけられる)を考え出し、自分が開発したソフトウェアにつけることにした。

 著作権制度の下では、改変や利用は本人の許諾が必要である。その許諾を得るための条件として、共有を強制する。著作物の共有を制限するcopyrightとは逆に共有を推し進めるこの制度は、「rightの逆」になぞらえて「copyleft(コピーレフト)運動」と名づけられた。

 1985年、ストールマンはFree Software FoundationというNPOを設立。GNU GPLの下で自由なソフトウェア(free software)を多数開発して共有を始めた。ここで開発・公開されたソフトウェアはLinuxにも数多く使われ、いまやコンピュータの一大勢力となっている。

権利者に自由への貢献をうながすクリエイティブ・コモンズ

 このコピーレフトの考えを創作物一般に拡張したのが、クリエイティブ・コモンズだった。提唱者は米国の憲法学者であるローレンス・レッシグだ。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、他人の作品にもとづいた創作や、自分の作品にもとづいた創作が実現できるよう設計されている。

 ライセンスの種類は複数用意され、非商業利用に限るというものもあれば、コピーレフトのようにほかの利用者に同じ自由を与えることが条件のものもある。

 作者は用意されたライセンスのなかから、自分のポリシーに合ったものを選んで付与し、公開すればいい。法的に有効なライセンスと著作権知識のない第三者が読んでもわかる説明に加え、誰でも検索できるように機械可読データとして提示することも重要だ。

 クリエイティブ・コモンズ・ライセンスによって公開された作品が商業的に成功を収めた事例や、絶版になった自著の電子版をクリエイティブ・コモンズ・ライセンスでフリー公開したところ、中古価格が上がったという事例もある。より多くの人に作品に触れてもらうという視点に立てば、この仕組みが秘める可能性は大きい。

 クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、自分の作品を人々にどう楽しんでもらいたいか、その考えを表明する手段でもある。幸い、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスには日本版も用意されている。もしあなたが何かの作品を発表することがあるなら、安直にAll rights reserved.と記して作品を閉じ込めるのではなく、自分が拠って立つ「自由」に貢献するのも、悪くない選択肢ではないだろうか。

権利者の懐が深い日本の二次創作、当日版権

 日本で著作権の問題を考えるとき、避けてとおれないのがコミケなどにおけるマンガ、アニメ、ゲームなどの「二次創作」と呼ばれる領域だ。ほとんどが無許諾の作品利用だが、そこにはプラスの効果もあると認知されてきた。

 原画やイラストは著作権で保護されるが、キャラクターの設定や性格づけなどは保護されないというのが定説のため、厳密に「侵害」と言えるかは微妙だが、ファンによる二次創作がムーブメントにつながったり、著作者自身が二次創作を経てプロになったりしたケースもある。出版社から見れば、作品の人気を醸成する場として、有望な新人発掘の場として機能するメリットもあるというわけだ。このことから、慣例的に黙認されているのが二次創作の現状だ。

 また、こうした権利者と利用者の距離の近さがクリエイター層の厚みを生み出し、いわゆる「クールジャパン」の原動力になっているとして、TPPに対応した著作権法改正からコミケをどう守るかが国の課題になったとも言われている。

 ガレージキット(組み立て式模型)の展示即売会である「ワンダーフェスティバル」には、1980年代に導入された「当日版権」という仕組みがあり、権利者の黙認頼みから一歩進んだ制度として評価できる。この仕組みの下では、即売会の運営主体が出展・販売するアマチュアの計画をとりまとめ、当日、会場内のみで二次創作品を販売・展示する許諾を取得する。正規のライセンシングと比べれば販売できる場所や個数などに制限はあるが、その代わりに事務的な負担が軽減されており、アマチュアの表現活動をあと押しするような形となっている。

 米国に見られるフェア・ユースの「制度の懐の深さ」に対して、日本の一部に見られるのは「権利者の懐の深さ」と言えるのかもしれない。しかし、このような黙認や厚意で成り立つ制度には、麗しくも望ましくない側面も含まれている。

 そもそも、黙認も許諾もしてくれない場合には何もできないということ。さらに、いつ、誰に対して黙認や厚意を与えるかは権利者が握っているため、権利者が望まないような表現を避けるという、二次創作者の自発的な抑圧につながってしまうことだ。

 こうしたことからも、日本版フェア・ユースの導入を求める声が根強くあるが、権利者団体の反対により実現していないのが実情だ。しかし、国際大学グローバル・コミュニケーション・センターの田中辰雄氏が2015年にプロからアマチュアまでクリエイター約1,000名に行なった調査では、営利・非営利や業種を問わず約7割がフェア・ユース導入に賛成という結果が報告されている。権利者団体は一体誰の声を代弁しているのだろう。

作品は自由になりたがっている

 ここで紹介した取り組みのいずれもが、作品をより広く利用してもらう、つまりいまの著作権制度を緩めて、創作物を利活用しやすくするほうを向いている。このことは、現行制度がどこか厳しすぎることを示しているのではないだろうか。作品はより自由になりたがっているとも言えるだろう。

 元来、著作権制度は、世の中に流通する作品をつくれるだけの力を持った少数の作者と、複製設備を持つ少数の複製業者のためにある専門性の高いものだった。一部の例外を除いた、どんな利用にも作者の許諾が必要で、許諾を得るためには交渉が必要というコストの高い仕組みが成り立っていたのは、その道のプロだけが制度に参加していたからとも言える。

 一方、複製された作品を享受するだけ、または交渉コストに見合わない利用しかできない大多数の人々は「私的利用」「フェア・ユース」といった範囲にとどまり、制度の表舞台に立つ必要もなかった。

 しかし、誰もが作品を創作し、複製、流通もさせられる環境となったこの数十年で、その前提が崩れてしまった。いまの人々は、「無害な利用」の範囲を超える利用もできるが、著作権のプロではない。こうした変化に法律は追いついていない。その「余白」を埋めるためにあるのが、コピーレフトやクリエイティブ・コモンズ、当日版権といった取り組みとも言えるだろう。

法の「余白」にこそ価値がある

 では、その「余白」をなくせばいいのだろうか?

 最近の技術を使えば、すき間のない、完全な管理も夢ではない。現在でもすでにその兆候は現れている。CDから音楽データをコンピュータに取り込むことは何度でもできるが、音楽配信サービスから曲を買った場合は一般的に複製回数が制限される。

 文章のコピーができなかったり、ペーストすると出典が自動で追加される電子書籍もある。これらの例は技術(アーキテクチャ)によって著作権管理をより徹底させた例と言える。インターネットをロボットに巡回させて顧客の作品のパクリを発見させ、著作権侵害者に対して利用料を請求して成功報酬を取る、というようなビジネスすら生まれている。いずれは、作品を入力すればパクリで炎上するリスクを算定したり、過去のどの作品にどれだけの「利用料」を支払う必要があるかを計算してくれるようにもなるかもしれない。

 このように、アーキテクチャの力を使えば、著作権は完全に守られ、それまで「私的利用」「フェア・ユース」として見逃すしかなかった軽微な侵害もない、透明な世界が実現するだろう。

 しかし、それでいいのだろうか。クリエイティブ・コモンズの考案者として先にあげた憲法学者のローレンス・レッシグは、それにノーと答えている。

 フェア・ユースは合理的な法のシステムのなかに敢えてつくられた「余白」である。そしてその「余白」こそが人々に自由を保証している。どんな創作も無から生まれることはなく過去の何かに拠っているし、どんなアイデアも生まれたときは脆弱で、社会の目が届かない不透明な領域(それはアトリエのような物理的な領域かもしれないし、内心のように精神的な領域かもしれない)をシェルターにしなければ育てるのも難しい。

 つまり、自由にものを使い、自由に考えられる苗床が失われて、すべてが許認可ベースになったら、人は何もつくり出すことはできない。技術によってその不透明な苗床が失われるのであれば、ルールを設けて苗床を守らなければならないと主張した。

 この主張を踏まえてあらためてフェア・ユース、コピーレフト、クリエイティブ・コモンズ、当日版権の仕組みを見ると、まさに「ルールを使って自由を実現する」形になっていることに気づく。

 これらは自由を制限するはずの制度の上につくられた自由な領域だ。法律と自由について考えると、「法律のない自由」と「法律の下での不自由」のどちらを選ぶのか、といった一元論的な議論になってしまいがちだ。しかし、レッシグの主張やこれらの取り組みは、そうした単純な見方を超えたところに問題解決の糸口があることを示してくれる。

結び

 洞窟で壁画を描いていた太古の昔から、人は何かを創作してきた。しかし、その作品を複製・流通させることは長い間、困難をともなった。それがやっと可能になった時代に、当時の社会環境の下で生まれ、発展してきたのが著作権制度である。

 その歴史を振り返ると、時々の関係者の思惑や紛争を経て、偶然いまの形になっているだけなのではないか、とも思えてくる。もしロンドンの書籍業者がヤラセ裁判をせず、スコットランドの書籍業者が海賊版をつくり続けなかったら、著作権は永久に保護されたかもしれない。もしストールマンがソフトウェアの囲い込みに憤らなかったら、オープンソースソフトウェアの普及はなく、クリエイティブ・コモンズも生まれず、著作権保護技術が「暴走」して誰も疑問を抱かない時代が来ていたかもしれない。もし福澤諭吉のものわかりがよかったら……。

 彼らの活動は、いまのわれわれから見ると「大人げない」ように映る。しかし、その大人げのなさが著作権が時代に合わせて前進するためには必要だったのかもしれない。

 一方現在、誰もが容易に作品を複製、流通させられる時代となったにもかかわらず、技術の発展と従来の著作権保護のあり方(と個人の気持ち)とが合わさって、自由に著作物を利用できる環境は狭まりつつある。創作する側にも利用する側にもいいルールを求める「大人げない」取り組みも、コピーレフトやクリエイティブ・コモンズ、当日版権のように生まれてきているが、そのうねりはまだまだ創作という大海にあって、小さな存在に過ぎない。

 しかし、もはや著作権は一部の閉じられた権利者だけでなく、コンピュータで複製し、加工してインターネットで配布することを日常的に行なっている私たち自身の問題でもある。どうすれば、作品はより自由となり、社会は豊かになるのか。その未来にある著作権のあり方をともに考えていければ、と思っている。

(文:猪谷 誠一/編集協力:猪谷 千香)
猪谷 誠一(いがや せいいち)

2008年博報堂入社。マーケティング局にて自動車、食品、ゲームなどを担当。2009年~2010年『広告』編集委員。2011年研究開発局・博報堂DYホールディングスマーケティング・テクノロジー・センターに異動。コンテンツ研究、数理統計技術のマーケティング利用の研究を経てデータ保護を研究。

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