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6月10日号
昨年7月に足かけ5年で1000冊に到達した『千夜千冊』。しかし、それで終わったわけではありません。来年はじめの出版を控え、本で世界を語り尽くすために、松岡正剛は現在も週に2-3冊のペースで書き足しているのです。きょうはその中から、1040夜として紹介された倉橋由美子をご紹介。現代小説の母でもある作家への限りないオマージュが綴られます。
『千夜千冊』第1040夜 2005年5月25日
倉橋由美子『聖少女』(新潮社)
今日のあまたの現代小説、なかでも村上春樹や吉本ばななや江国香織に代表され、それがくりかえし踏襲され、換骨奪胎され、稀釈もされている小説群の最初の母型は、倉橋由美子の『聖少女』にあったのではないかと、ぼくはひそかに思っている。
しかし今夜は、そのことについては書かない。その程度のことなら、『聖少女』を読んでみればすぐわかるはずのことである。そのかわり、ぼく自身がずっと倉橋由美子を偏愛してきた理由をいくつかに絞って書いておく。
大学2年か3年のときだったから、もう40年ほども前のことになるが、『聖少女』を読んだときの衝撃といったら、なかった。どぎまぎし、たじろぎ、そして慌てた。
いろいろな衝撃だったけれど、その感想を大別すれば二つになる。ひとつには、こういう小説がありえたのかと思った。こういう小説というのは、男女の関係を奔放な文体と告白で克明に綴っていることそのものが、実は文面上もフィクション(擬態)であったということを、作家倉橋由美子がもうひとつ裏側からフィクション(擬構造)しているということだった。これについては、あとでもうすこし詳しく説明する。
もうひとつは、「いま、血を流しているところなのよ、パパ」などというふうに唐突に始まる小説など、当時はまったく初めてで、しかもそういうことを若い女流作家が書くということも初めてで、そういう書きっぷりを含めて、ここまで「少女であろうとする女の感覚の正体」を突きつけられたことに、ただただ青年松岡正剛が周章狼狽したということだ。これについても書きたいことはあれこれあるけれど、今夜はやめておく。なんだか、松岡正剛の男性的幼児性の大半が露呈しそうであるからだ(バレてるか)。
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傑作『親指Pの修業時代』で新女性文学を切り開いた著者。エッセイも官能的。
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明治と同様、現代も女性が時代のオーラをつくるのでしょうか。この人もきっと。