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6月24日号
このごろはやっている本が、古典といわれる本の内容を短く手軽にわかるようにしてくれる解説本。えっ、そんなの邪道だといいたいんだろうって? いえいえ、とんでもありません。本について語る本のカタチが、いろいろさまざまあることが、「本」本来の自由を語っているのです。そこで、今回ご紹介するこの一夜。映画デビュー!?に中学劇の思い出から、だんだんハードになっていく語り口にのせて、シェイクスピアの4大悲劇の特徴、劇の見方、さらに世界の裂け目まで案内される。本を伝える、こんな自在もあるのです。
『千夜千冊』第600夜 2002年8月19日
ウィリアム・シェイクスピア『リア王』(福田恆存 訳/岩波文庫、新潮文庫ほか)
ときどき「なぜやらなかったの、せっかくだったのに、もったいない」と言われることがおこる。ぼくにはこれが多い。仕事でも出品でも、旅行でも逢い引きでも。
なかに、ぼくが役者としてのチャンスを逃した2度の“事件”が含まれている。
ひとつは森田芳光がぼくを映画に引っ張り出そうとしたときで、丸山健二原作の『ときめきに死す』だった。一度、人を介して断ったところ、森田監督はわざわざそのころ住んでいた麻布の自宅まで口説きに来てくれた。「役者ではなく実在の人を使いたいんです。それで、いろいろ考えて松岡正剛さんと谷川浩司さんで映画にしたいと考えたんです」と監督は言った。谷川浩司はそのころの将棋の名人である。
このアイディアには感心したし、森田芳光の才能にも目をみはったのだが、ぼく自身に役者になる動機が薄く、なんとなく断ってしまった。「やればよかったのに」とその後もよく言われる。映画は沢田研二が主演して、ぼくの役は日下武史になった。
もうひとつはチャンスでもなんでもないのだが、あるいはやっていれば何かがおこったかもしれなかった。
中学三年のときである。学芸会の演目を選んでいるとき、担当の美術の日ノ下先生がいったい何をどう判断したものか、ぼくに『リア王』をやりなさいと言ったのだ。グロスターではない。リア王その人をやれというのだ。「荒野をさまよってリア王が狂うところがあるやろ、あそこを松岡がやるとええわ」というのである。「おまえにはそういうところがあるやしなあ」。この先生、何を言っているのかと思った。
この話はすぐに流れて、たしか『七年目のイリサ』とかなんとかという軽い芝居になった。ぼくも出演したが、七人の神々の頭目のような役だった。いま思うと、なに中学生のことだ、おもいきってリア王をやっていればよかったかもしれない。きっとお笑い草だったろうが。
『リア王』はシェイクスピアの最高傑作である。
四大悲劇は『ハムレット』も『マクベス』も『オセロー』もさすがにいいが、なんといっても『リア王』だ。もし、もう一作をあげるとすれば遺作となった『テンペスト』(あらし)であろう。
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