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5月13日号
会話していても知っている本が出てくるとウレシイものです。千夜千冊も有名な本はひときわアクセスが多い。そこで今回はあまねく知られたこのマンガ家の登場です。発表当時、このセイゴオ式の手塚論は、マンガ研究者たちでたいへんな話題沸騰となりました。そう、われらがテヅカこそは、国民作家ゲーテであり、大審問官ドストエフスキーであり、超文豪ユゴーであって、世界そのものを組み立てる巧緻なレオナルド・ダヴィンチだったのです。
『千夜千冊』第971夜2004年4月23日
手塚治虫『火の鳥』(角川書店)
ぼくは手塚治虫フリークではない。けれども読むたびに、必ず感意してきた。何に感意してきたのか、そのことを考えたこともなかった。「めちゃくちゃ、うまい」としか見ていなかった。
先だって、そろそろ何かを集中して読もうと思って、それなら『火の鳥』がいいかなと決め、それほどストーリーを追わずに読んでみた。理由がある。『きりひと讃歌』や『ネオ・ファウスト』、『シュマリ』や『ブッダ』や『グリンゴ』や『アドルフに告ぐ』はどれも一気に読んだのだが、その時期は時間を忘れるように読んでいて、手塚治虫を味わう余裕なんてなかったのだ。
一方、『火の鳥』は、初読は連載時ではなくて単行本になってから数カ月おきに読んだので、印象はやや散漫。次にブロックハウスに転がりこんでいた新人類のハシリと呼ばれた木下邦治君に「あれ、やっぱり凄いですよ」と促されて一気に読んだときは、どっぷりストーリーに嵌まったので、またまた手塚治虫を味わうにはいたらなかった。
今度は味わった。手塚マンガを味わうのはどういうふうにこちらがなるかと思いながら読んだのだ。
以下は、その”陰の声”の一端になる。『火の鳥』の感想というより、手塚治虫についての感想だ。
手塚治虫はゲーテであってドストエフスキーであって、アレクサンドル・デュマである。これは疑いようがない。
ついでにヴィクトル・ユゴーやエミール・ゾラを加えてもいいけれど、ようするに、かつてはそういう作家を「文豪」と呼んでいたのだから、さしあたってはそう呼ぶしかないのだが、文豪なのだ。
文豪の条件はいろいろあろうけれど、最大の条件は3つある。第1に、国民文学をつくりあげることによって世界文学に匹敵したということだ。第2に、自分がつくりあげた複数のキャラクターを普遍化できたということである。第3に、どんな作品になろうとも、その底辺に流れるテーマが変わらないということだろう。
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あらためて思おう。日本のマンガは文化であり、心であり、勿忘草というものだ、と。