吉田満『戦艦大和ノ最期』―― 松岡正剛の電読ナビ

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4月4日号

 きょう紹介する「千夜千冊」は、1年前の4月6日に、60年前のその日に日本におきたある悲劇を思って書かれたものです。本の著者は、そのとき弱冠22歳の青年士官だった吉田満。敗戦直後に、ほとんど一日だけで書かれたというこの一冊は、漢字とカタカナという当時の戦闘詳報の体裁をとり、決して読みやすいわけではないのに、今なお心に深く彫り込んでいく言葉の力をもっています。海外でも『Requiem for Battleship Yamato』のタイトルで文学作品として読まれ続けていて、何よりも忘れないことの大切さをこそ、伝えているようです。

『千夜千冊』第961夜 2004年4月6日

吉田満『戦艦大和ノ最期』(1978 北洋社 1994 講談社文芸文庫)

 59年前の今日のことである。

 昭和20年4月6日になる。午後1時59分に、戦艦大和に沖縄への出撃命令がくだされた。この5日前、米軍が沖縄本島に上陸していた。午後4時5分、新たに「海上特攻隊」と名付けられた艦隊は、戦艦大和を中心に停泊中の徳山沖を出撃した。

 海上特攻隊は第二艦隊の大和、第41駆逐艦の冬月・涼月、第17駆逐艦の磯風・浜風・雪風、第21駆逐艦の朝霜・霞・初霜で編成されていた。いずれも儚い雪月花を想わせる艦名である。大和と11雙は静かに縦列包囲しながら沖縄に向かおうとしていた。

 しかしながら第二艦隊といえば、そもそもは連合艦隊の 中核兵力であり、日本海軍きっての重巡部隊だったはずである。それがいまやたった10雙の駆逐艦ばかり、それでもこれが帝国海軍が繰り出せる最後の兵力だった。

 すでに駆逐艦8雙は、舷側に白く菊水を描いて”死化粧”をしていた。菊水1号作戦の名にちなむ意匠だが、楠木正成親子とその一団全員の壮絶な最期を思わせもした。

 2月19日に米軍は硫黄島に7万人を上陸させていた。3月10日には、334機のB29が東京に大型焼夷弾を雨霰のように降り落とし、26万の家屋が炎上、8万の死者が出ていた。罹災者は100万人。それが大阪・名古屋でも、いや主要都市めがけておこりつつあった。

 日本全土の交通網は遮断され、このままいけば”本土決戦”の機会を逸したまま日本列島は焦土と化すにちがいない。なんとか沖縄で上陸を食い止めるしかなかった。

 大和が艦隊速力を20ノットに固定すると、第二艦隊司令長官伊藤整一中将から各艦に訓示が信号された。

 「神機、将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」。

 米軍の沖縄上陸は4月1日午前8時30分に決行された。

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